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練吉は盃を口にふくみながら答へた。
「うん、寄りがあるからな、あんたはうちに帰つとんなさい」
今さつきまで誰もいなかつた通りの、ずつと先きの方から黒い人影が歩いて来るのである。袴をはいて小さな風呂敷包か何かを抱へている、そのやはり背高な、直立したまま急ぎ足に歩く恰好はまぎれもない町役場の書記の今泉だつた。
「もう一人後から来るかもしれませんが、そしたらよろしく頼んます」
「あゝ、まだ持つてる!」
やゝあつて徳次が訊いた。
前には俄かに急になつた路面がいつのまにか狭せばまつて来た山合ひにぐつととつついているのが見えた。房一はうつすらと汗ばんでいた。だが、彼の見たものは路や山肌ではなかつた。彼の前面には何かしら温気うんきのある靄もやに包まれたやうな、不確かな、だが一歩ごとに物の形の明かになつて来る、汗ばみながらその方へ突進したい気を起させる、あの漠とした未知の世界があつた。
「それが、その、来ないわけがあるのさ」
「うむ、判る?――ね?」
男は力なげに口をあけていた。
房一は慌てて、診察にかゝつた。その後で彼は云つた。
彼はもう少しで最も善い友人に向ふやうに考へごとを打ち明けるところだつた。